昭和43年 3月25日 夜 佐田與一郎
せっかくお道の信心をさして頂くのでございますから、せめてここまでは信心を極めておきたい。ここまでは分かっておきたい。ここまでは自分のものにしておきたいと思うのですけれどもね。
神は我が本体の親ぞと。信心は親に孝行するも同じことと仰せられる。ここのところの信心。ね、神は我が本体の親ぞと。信心は親に孝行するも同じこと。いわゆる神信心というのいはもう親子の関係にある、親が子を思い子が親を思う。その情をもって信心がなされる。
いわゆる当たり前のこととしてなされる。お願いにお参りせんならん。お伺いにお参りせんならん。そのための神様。そのための金光様は。だというようなものであっては、いつまで経ってもおかげが受けられん。本当のおかげになってこない。
いわゆる、神は我が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じことぞよ、と仰せられますが、もう当たり前のこととして、ね、親が子供を養育するのにこの子供が自分たちを看てくれるために、将来親孝行してくれることのために養育すると。そういう条件つけて子供を教育するものを親はおりません。
まぁ厳密に言えば、まぁ少しあるかもしれませんけれども、親の情としてはどうであっても、やはり親としてのまぁ責任というようなことはなくても、当たり前のこととして子供を育てる。ですから、子供もまた親を看るということは当たり前。老後の親を子供たちが看るのはこれは当たり前。
まぁしようはなか。といったようなものではない。もう当たり前のこととしてその親は、親は子を看り、子は親を看るというところに親子の情というのがあるように、天地の親神様と私どもの情というものはそういうもの。金光大神はそういうところを教えておられる。もう当たり前のこととしての信心。
我情我欲を離れて真の大道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてある。次にはここである。本当に我が身は神徳の中に生かされてあるんだなぁというような、その実感とそれに伴うところのおかげとが、平行して頂けれるようなおかげを頂きたい。
我情我欲を離れて。どういうことか?私はね、もう本当にどうどう、あーしてください、こうありますように、というようなもではなくてです。ね、もういわゆる神様がくださるものならば何でも、それこそ(?????)である。神様がくださるものなら、何もかにも一切を黙っていただこうと。言うならば、どうでも良いというのである。右とか左。我情自分の思いを捨てるということ。
冗談じゃないですよ。私はほんなこと病気を治してもらいたいばっかりにお参りしよりますとです。金銭のおかげ頂きたいばっかりにお参りしてきよるとですよ。なるほど、そいうこともあって良いけれども。けれどもせめて、お互い信心をさして頂くのでございますから、ここまでは信心を極めておきたいということを言ってるんです私は。
ね、はじめは誰だって願いのために。お伺いのために。ただ苦し紛れにお参りする。けれども、そう言うことから御神縁を頂いたのでございますけれども、ね、神は我が本体の親ということが分かってくれば分かってくるほどに、当たり前のこととして、信心がなされる。しかも、どうでもよいという気持ち。これは我情を取った姿であり、我欲を取った姿である。
どうでもよいといった気持ちになった時にです。神様は私どもがそれこそ夢にも思わんようなおかげの方へ。いわゆるそういう信心に、そういうおかげが展開してくる。ここんところのおかげを、我が身は神徳の中にあると仰る。なるほど神様のお懐にあるんだなぁと。なるほどご神徳の中に生かされている私達じゃあるなぁと。おかげが受けられるのです。
それを私どもが右でありますように、左でありますようにと願って。右と願って右ならおかげと言い。右と願ったことが左になるとおかげを頂ききらんかったという。そういうところから信心がはじめられて、そして今申します、信心が当たり前のこととしてなされる。朝参りなら朝参りという修行が、もう当たり前のこととしてなされる。ね、どうでもよいのじゃから、信心もどうでもよいといったようなことになったんじゃ、これはもうお話になりません。ね、おかげの方がどうでもよいのである。
ね、これは大変難しいことのようでございますけれども、せっかくお互い信心をさして頂くのですからせめてここまでは金光様の信心を会得しておきたい。それを私はまぁ一口で言うなら、ここまでは頂きたい。ここまでは自分のものにしておきたい。というのはです。いつでもどこでも、生神金光大神様、生神金光大神様と唱えさしてもらうところに私の心が安らいでおる。いうならば金光様ありがとうございます。金光様ありがとうございますと、いつでもどこででも唱えれるところまでは信心を進めておきたいというのでございます。
ね、どうでしょうか?いつでもどこでも金光様ありがとうございますともし言えれるようなら、心の内容というものができてきておる時には、もうあなたの信心は信心が本当のものになってる。信心は親に孝行するも同じことぞよというような信心の方向に方向づけられておる。
本気で我情を取ろう、我欲を外そうと努めておるから、いつも我が身は神徳の中にいかされておるんだなぁという実感が、その喜びが金光様ありがとうございますと。どこへおってもどのような場合でも、金光様ありがとうございますと言えるのではないかと私は思うのです。せめて、せっかく信心をさせていただくのですから、ここまでは信心を自分のものにしておきたい。そう思うのですね。どうぞ。